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ざっくり言うと、「オロの社長が話すから来なよ!」とirootsという学生スカウトサービス(運営会社:株式会社INNOVASE)から連絡が来たので行ってみました。

参加した学生はなんじゃらほいって 男女比半々くらいでこんな感じ
国立が2人(筑波,神戸)
慶應が1名
早稲田本キャンが2名
上智が1名
SFCが1名 同志社立命が各1名
早大所沢、明治立教各1名

関西からの参加者が意外に多い事に驚きました。

内容は、パネルディスカッション+質問、懇親会のように進みました。
パネルディスカッションは
1,立ち上げの苦労
2,15年間継続成長の秘訣
3,ベンチャーとキャリア
4,活躍するためには
のように進行すると名目上はなっていました。

実際にはその通りに進むことはなく、自由にお話なさっていました。

その深澤さんと川田さんとのやりとりの中でいくつかトピックがあったので、それぞれについて考えを書いていこうと思います。

大学に目標決めてくる人なんて全然いないよね

その通りだと思う。ほとんどの人は何となく入れそうな大学の中で一番上を目指して大学に入っている。
だから、ネームバリューのある大学に入った人は何となくすげぇと思われる。
実力とかあんまり関係なく。
自分なりに目標持って課題設定して大学選んだ人も中にはいると思うけれども、高校の時点で知っている世界なんてたかが知れている。その結果、間違った課題設定を基に大学を選んでいる可能性が高く賢明とは言えなかったんだろうなとも思う。
日本の大学はなぜか学部にそれほどの意味はなく、そのため「何を勉強するために、何を考えて大学に入ったのか」よりも「どこの大学に入ったのか」で人を判断する場合も多い。
「~を勉強したい」でまず大学を絞り、その次に偏差値やブランドで決める人は少数派で、大多数は偏差値やブランドで大学を絞り、受かったところからなんとなく勉強したいことで決める。
そんな世の中であることを理解していなかったため大学に入ってからいろんなギャップで苦しむことになった。
今振り返るとするならば「何をしたいか」ではなく「優秀な人間がどれだけ集まっているか」で進路を決めればよかったと思う。
所詮10代の考える「将来やりたいこと像」とそこから考える「何を勉強したいか」なんてものは的外れで、そこに拘って進路を狭めるのではなくむしろ知らない世界を見よう的スタンスでいればいいのではないかと思う。
そして、知らない世界を見せてくれるのは各分野で突出している人たち。つまり優秀な人たち。そんな人が大勢集まる所に行くことがとりあえず最善解かなと思う。

何で歴史なんて勉強する必要があるんだろうと思っていた(高校時)

同じことをわたしは理科系科目に対して思っていた。当時のわたしは歴史や古典の勉強が最も重要だと思っていた。
今ではめちゃめちゃ勉強しておけばよかったと思っている。
なぜ歴史や古典を勉強すべきと考えていたかというと、陳腐化しないから。パラダイムシフトは起きないと考えていたから。人間を学ばずして物は創れないと考えていたから。(もっとも当時、陳腐化なんて高尚な表現は知りませんでしたが。)
そんなわけで、人を学ぶ教科が文系で、人が使うモノを学ぶ教科が理系だとするならば、まず文系を学ばなければと考えた。ただ結局両方必要ということは間違いなくて、その優先順位が自分の場合は人の方が高かっただけ。
「目を高くして、手を高くする」のか「手を高くして、目を高くする」のか。
どっちでもいいんじゃない?

人生はギャンブルではない/ルールは守る。法律はそのうちついてくる。

ギャンブルって定義が難しいけれども、「運を天に任せる」という事を意味しているのならば人生はギャンブルであるべきではない。そう思う。
一方で(人生は生まれついた時から既に決められているとする考え方あるけれども、そうではないと仮定すると)人生はイカサマの許されたギャンブルかもしれない。帰責事由のない交通事故が起こるかもしれないし、隕石が降って直撃されるかもしれない。そう考えると一瞬一瞬生きる事がまさにギャンブルとも取れる。ただその可能性は自分の努力、或いは人類の努力によって下げるもしくは排除する事も可能で、人類は運命に抗う事を許された唯一の生物なのかもしれない。とはいえその人類も自然の一部であるわけで、とするとその一切の思想行動はイコール自然で、となると...うむ。
卑近な例で考えれば、法律違反はしませんよという事かもしれない。「一か八かばれないだろうと思って賭けに出たところあっさりお縄になって社会的に抹消されました。」それは悲しすぎる。
川田さんは「ルールは守る。法律はそのうち時代に合うようになるだろう」と仰っていた。時代は民意が作るものだとするならばその通り。ルールが先か、人の生活が先かと考えると人の生活が先だろう。人類の営みがまずあって、それを円滑にするために法が生まれた。ただ、人の営みは流動的で法律は基本的には固定的である。   とするならば、流動的な人の営みをとある時点を基準に固定した制度は人の営みの変化に応じて再構築されなければならない。人の営みの自然な変化を、不完全な人間の手によって作られた制度で阻害する事は違うんではないかと思う。   だからわたしはこう考える。「人として守るべき、道徳的倫理的なルールは守る。しかし他は知ったこっちゃない」厳密に言えば法律だって固定的ではなく血が通っている。時代によって解釈も変化する。法律=全てではない。

働き方はツールで変わる

昔、小学校の頃、会社にはすごい憧れを抱いていた。大きな建物に最先端の機械を詰め込んで社会を動かしている感があったからだ。しかし現在では会社の設備よりも個人の持っている物の方が性能が高くかつクールである場合が多い。出社しても性能悪いから自分の使うという場合もある。しかもそもそも出社しなくても仕事できる。
trello,Skype,Google Drive,chatwork,Slack,Dropbox素晴らしいツールがたくさんある。
WORK SHIFTにもそんなことが書いてあった気がする。
10年後には職場と家庭の区別がないんだろうな...

変化していく意志

所属する組織は、変化していく意志があるところを選ぼう。と仰っていた。
VUCAと呼ばれるこの世界の中で変化していく意志のない組織はつぶれるよね。そういう事だと思う。
ただ、変化していく意志は組織の中では体制に表れていて初めて機能すると考えると難しい。
よほど人事関連に詳しいか、内部から体制を見ないことには分からないだろう。
とりあえず、変化していく意志のある人間の集うところに行こう。