外の世界は意外と楽しい

海外経験者のサードプレイスAWAY LOUNGE代表者のブログ

反対されても気にするな。人生は彩るためにある

いま好きだと思っていることを追求するために、就職前に休学すべきかどうか。ということに関して話す。マレーシアの昼下がり。

そこで沸き起こる疑問がある。

 

「私にはそこまで悩める、打ち込めることがあるのだろうか」

 

私たちはパトスを失ったらつまらない人間に成り下がる気がする。どんな時に怒り、どんな時に哀しみ、どんな時に喜び、どんな時に楽しいのかということを積み重ねることによって自己を認識できる。感情の起伏がない人間は、ヒトと呼べるのだろうか。だからこそ、自分の核を成す「全力で打ち込めること」が欲しい。自分の人生を自分の好きなことに捧げる選択をした人はヒトとして輝いて見える。

 

自己は経験を通して形作られ変化していくものである以上、自己を理解するのは机の上では不可能だろう。実際に何かを体験してみて、それに対する自分の感情の動きを観察するしか方法がない。それにはリスクがあろうがやるしかない。何かを「好きだ」と感じた時、それを高い確度で実証するためには実際に取り組むことが必要になる。それが私は興味を持ったものにはとりあえず取り組んでみるべきだと思う所以だ。

 

人生を振り返って「結局私は何が好きだったのかわからない」という感想は抱きたくない。「好きなことに挑戦することを諦めた」と後悔する死に様は想像できない。好きなことのために、たとえ他人から「あほか」と言われるような選択を取ることになったとしても、その選択に自分の意思を感じられればそれでいい。それこそが「自分」が生きた証を自分に示す爪痕となる。その爪痕をどう考えるかで、自己を振り返って理解することができる。

 

人類は元来開拓者精神を持っているはずだ。でなければこんなに世界中に人類が分布することはないだろう。そしてその精神が人類を技術や社会制度の面で進歩させてきた。だからこそ、その進歩した技術に頼りきって進歩の意思をなくしてはならない。ある程度完成された社会制度の壁の中に安寧とし、挑戦をしなくなってはならない。そんな空気が蔓延した社会は衰退していくのだろう。生物が進化し続けるように、人類も進歩し続けるものだろう。であれば、individualとしての個人も進取の精神を失ってはならない。

 

少しでも興味を持ち、それを全力で好きになる可能性があるのなら、多少のリスクは負ってもやってみるべきだろう。興味を持つということは素晴らしいことだ。興味は新しい世界を自分にもたらしてくれる。その世界に浸り、一員となれたと感じれた時、さらに鮮やかな景色が目の前に広がるのだろう。たとえその世界が腐った世界だったとして、これまでの世界の鮮やかさに気づくことになる。

 

自分の人生を彩りたくないと考える人はいないと思う。彩りのない人生が語り継がれることはなく、人や後世に影響を与えることはない。「技術と制度に飼われた生」は人類の進歩に寄与しない。周囲の人間の参考にもならない。

 

人生に彩りを添えるには、自分の意思と行動が必要になる。他人に反対される、他人が驚くことを実行したとき、その人の人生に色彩が増えたと考えられるだろう。十人十色な世界が理想なら、自分の価値観にまっすぐに、好きに正直に生を捧げることをよしとしよう。倫理、公益に反しない限り、たとえ他人から見て愚かな選択だとしてもそれを止める権利はない。

 

Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.

挑戦の士気を挫くアドバイスは、相手の人生から彩度を減らすことになるかもしれない。選択の結果どんなに苦しくなったとして、それが生を奪うものではない限り、振り返れば喜劇になる。喜劇で満ちた人生は素晴らしいものだ。

 

全力で挑戦しての失敗は局地的な負けでしかない。項羽と劉邦の楚漢戦争で、最終的に勝利したのは負け続けた劉邦だった。人生は振り返った時にハッピーならば勝ちだろう。その途上、どんなに負けてもいい。終わりよければすべてよし。だから、周囲の余計な口出しは不要だし、周囲からのさえずりは聞き流し、我が道を進めばいい。

あなたの人生はあなたのためにある。